クラフツマン25周年モデルを飾るフィレンツェ・スタイルの彫金
2014.12.17 UP
”伝統と革新”が二人をつないだ。
2014年もあわただしい年の瀬に向かおうとする初冬の昼さがり、クラフツマン25周年モデル開発責任者の橋本直樹は都営地下鉄・西巣鴨駅から明治通りの一角に降りたちました。首都高速の高架道が空を塞がんばかりに覆いかぶさり、新旧のビルが競うように空に向かって林立しています。この建物の一室に橋本が足を運ぶのは今回が初めてではありません。年初から始まったクラフツマン25周年モデルの企画の中で、橋本がこだわった手仕事によるケースバックへの彫金(エングレービング)。通常の刻印は機械化されたレーザー機器によって行うが、ケンテックスの25周年を飾るこの特別なウォッチには、どうしても洋彫り職人の手仕事による刻印を施したいと考えていました。
「以前、トゥールビヨンのサイドプレートの彫金をやったことがあるんですが、そのときに和彫りと洋彫りのそれぞれの職人さんにサンプルを作ってもらったんです」
和彫りは鏨を金槌でたたきながら手前に引くように彫っていくのに対し、洋彫りは金槌を使わずに鏨を直に持って、手前から奥に向かって彫ります。 「和彫りのラインは金槌を使うことで打ち出される力強さという魅力があるんですが、曲線のラインが少し堅く、今回のクラフツマンのように、ふくよかな滑らかさを表現するなら洋彫りを試してみたいと思っていました」
25周年モデルのケースバックにあしらわれた雉は、橋本直樹の発案です。頭の中にある繊細な曲線を体現できる彫金師を探していたところ、櫛部さんに行きあたりました。
「櫛部さんは、まだ若いながらもフィレンツェでの職場経験もあり、伝統的なスタイルに革新を加えるマインドを持っておられる方だと感じました。クラフツマンもまた、機械式時計という伝統性にトリチウムやIPHといった現代技術を融合させるコンセプトが盛り込まれています。”伝統と革新”を表現するにあたって、あえて若い櫛部さんにお願いしたいと思ったんです」
「すべては石のために」
作業場で櫛部氏が取り組んでいたのは、なんと七宝焼(しっぽうやき)への彫金。七宝焼といえば日本では奈良の古墳からも出土している伝統工芸です。ヒコ・みづのジュエリーカレッジと2年間のイタリア研修で彫金を学んだ櫛部氏は、大手ジュエリーブランドを手掛ける会社に就職し職人として3年間腕を磨いたのですが、本場イタリアのフィレンツェ・スタイルという伝統的な彫金技法への思いが募り、単身フィレンツェに渡り2年半、現場で研鑽を積みました。 櫛部氏が取り組んだのは、イタリアの中でも特に装飾性の高いフィレンツェ・スタイルです。見る者の目を釘付けにしないではおかない華麗さと気高いシックさが共存し、ルネサンス時代から文化人や芸術家、貴族の支持を受けてきた伝統的な彫金スタイルで、デザイナーと職人とが完全に分離している世界だといいます。 王侯貴族の身を飾り磨き上げられてきた彫金は、宝石という主役をいかに引き立てるかという命題を負っています。「すべては石のために」というわけです。実際、櫛部氏は仕事の多くを超高級宝石ブランドから請け負っており、このときは石を引き立てる職人に徹していました。 一方、自らの創作性・独創性をもとに切り拓いていく仕事もあります。シンプルさが好まれる現代においては、長らく石の影に隠れていた彫金自体が主役になる可能性が広がってきました。万人受けするものではないとしても、そこに櫛部氏は自らのブランドをもったデザイナーへの夢を賭けたのです。クラフツマンの仕事はそのちょうど中間といったところでしょうか。
「芸術性半分、商業性半分の世界です」という櫛部氏の言葉に橋本は大きくうなずきました。
クラフツマンへの彫金の実作業
ここでクラフツマンのケースバックへの彫金を実演してもらいました。「チャポラ」という極小のタガネを二段目の引き出しから取り出し、刃先を研ぎます。この引き出しは用途ごとに刃先のことなるチャポラが並んでいます。チャポラは柄の部分が球状になっており、たなごころにすっぽりと収めるようにして持ちます。 ケースバックを回転式の彫刻台に粘土で固定。彫金がはじまりました。チャポラを持った右手はほとんど動かさず、彫刻台の回転部分を左手で少しずつまわしながら彫り進めていきます。タガネの方は動かさず、台の方を動かして彫っている感じです。水墨画のように、さらさらっとはいきません。こつこつと地道に彫りを進めていきます。こうして橋本のデザインした雉が、ケースバックの上で命を吹き込まれるまでに5時間以上も費やされたのです。
「やはり雉の力強さと生命力が違う」と完成品を手にした橋本。「手彫りには、羽の一枚一枚の彫り幅が途中で変わったり、彫りの深さに強弱がついていたり、表情みたいなものがありますね」
ベランダから差し込むやわらかな冬陽に包まれて、黙々と雉と対峙するその背中は孤高な仏師のようでした。